苦しいときは
Posted: 2008.02.12 by sakuya in 未分類
苦しいときは昔を思い出すといいよ
自分が生まれた日
はじめて母のふところに抱かれてやすらいだ朝を
わが子に人生を与えた親の思いを
思い出すといいよ
悩みなく遊びまわった幼いころ
ころんでもころんでも世界を信じて
傷が治らないうちにまた走りだした夏休みを
思い出すといいよ
夢破れて死のうとさえ思ったあの夜を
もう二度と朝は来ないと思っていたのに
やがて魂に忍び込んできたあの夜明けの美しさを
苦しいときは
今をよく考えるといいよ
自分だけのちっぽけな物語を
それが壊されて苦しんでいるもろい心を
それらを包み込む大きな物語がきっとあることを
よく考えるといいよ
だれにもわかってもらえないはずのこの苦しみと
同じ苦しみを今この時耐えている友がいて
深い祈りの世界で結ばれていることを
よく考えるといいよ
自分はもう十分に苦しんだこと
苦しみながらも今ここに生きていること
苦しんだ者だけが放つ輝きに包まれていることを
苦しいときは
明日を夢見るといいよ
いつかすべてを月日が洗い清めて
こころにひとかけらのけがれも痛みもなく
晴れわたった雪山の青空のようになれる日を
夢見るといいよ
苦しみ抜いた末に優しさのちからを知り
苦しむ人の気持ちが痛いほど分かるようになり
涙にくれるだれかの隣にそっと寄り添える日を
夢見るといいよ
苦しみはいつか喜びにかわると身をもって知り
あの最もつらかった一日こそが
最もありがたい一日だったと感謝できる日を
それでも苦しいときは
もう何もしなくていいよ
歩けないなら歩かなくていいよ
弱ったその身そのままで黙って座っていていいよ
冬眠に入った天道虫のように小さく丸くなって
何もしなくていいよ
今日も揺れ騒ぐ波の底に貝は眠り
風わたる樹々をおおい星空はめぐる
人はすべてのいのちと結ばれているから
何もしなくていいよ
一粒の苦しみも見逃さない天使たちに囲まれて
誕生への深き眠りに落ちていこう
あらゆる苦しみは生みの苦しみなのだから
晴佐久昌英